再び竹原へ。学術会議第13回総会「原子力問題に関する討論」①
先日の竹原訪問の際、竹原市歴史民俗資料館学芸員の方、市役所の方から資料の閲覧・複写についてアドバイスをいただいた。
その時、竹原書院に三村剛昂蔵書文庫がある旨うかがい、年末の暇に任せて再訪した次第である。
司書の皆さんはご丁寧にありがとうございました。
目録等は個人の研究の用のみとのことで、公開は禁じられたので明かせないが、ドイツ語原著に三村先生ご本人の数式や図の書き込みが多数あったり、森戸学長の記事で赤線波線が入っている箇所等、お考えを感じることが出来、ずいぶん血の通った資料であった。
先日の学術会議における記事について。
今回の竹原行で追加資料が手に入ったため、三村剛昂先生の原爆に対するお考え、アメリカに対する感情、原子力に関する姿勢にあらたに思うことが出来た。
前回科学者と平和活動を分離するような記事を書いたことには、反省しきりである。京都会議等にご参加のいきさつを勉強しなおし、不足を埋める努力をしなければ。
冷戦当時、ラッセル=アインシュタインのパグウオッシュ会議の活動に見られるように、科学者たちは自分たちが率先して善用悪用を問わねば再び過ちが起きるとの危機感に追われていた。
ことに、三村剛昂はやはり、原爆を経験したもの(当時はビキニ実験も含めて『三度の被爆』との文言多数)の義務として、常に原子力一転兵器転用の警鐘を鳴らしつづけるべきとの考えだったに違いない。
学術会議第13回総会では藤原武夫(同じ文理科大だが物性物理)も同席していたようだ。
彼は茅・伏見提案、三村剛昂提案に対して出ている我妻副会長(東大法学部)の、『我が国の原子力研究をいかにするかについての検討会議の設置』に賛成を示している。
「(物性のため原子物理は門外漢)原爆をアメリカが作っているかもしれないということを、教えていただきたかった。そうすれば(疎開させて避難させたので)身近なものを死なさずに済んだ。今でもそれについては良心の呵責にさいなまされている」
彼のこの発言は、三村剛昂にとっては非常に痛いところだった。